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小学館イマージュ

千利休「横雲文」

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日本文化を代表する茶道芸術。その心と技とを大成した『茶聖・千利休』の美と精神を伝える書状の名筆を完全復刻

 茶道の大成者として、秀吉の信頼を一身に受けながらも自刃して果てた千利休(せんのりきゅう)。利休は、枯淡の境地を生涯にわたって追い求めた天下一の茶人と称され、その評価は今も変わらない。その利休の文が400年の歳月を経て、現代によみがえる。

【横雲文をめぐって】
 手紙の日付は「二月五日」(天正19年〈1591〉)あて名は「聚光院(じゅこういん)様」とある。聚光院が京都・紫野の大徳寺の塔頭(山内の寺院)であることは周知のとおり。橋立の壺を預けるから、私(利休)の判(自筆の文書)のないかぎり、だれにも渡さないでもらいたい、という文面である。
 「橋立」の壺とは、将軍足利義政〈1432~90〉遺愛の茶壺である。当時、利休が伝得して愛蔵していた。秀吉が、たいそうこの茶壺に執心した。が、再三の懇望を利休はしりぞけた。その曰くつきの茶壺が、この「橋立」の壺なのだ。手紙の背後には、秀吉が一計をめぐらして、利休の手から取り上げようと画策したことが、ありありと思い浮かぶのである。
 このわずか一週間後には、利休は秀吉から閉門を仰せつかって、生地の堺に退去する。そして周知のように、二月二十八日の拂暁(ふつぎょう)、切腹して70年の生涯を閉じたのである。
 利休切腹の理由は、古来、さまざまに取沙汰された。すべては謎の中。しかし、この「橋立」の壺献上を拒否したのも、秀吉の逆鱗の一つではなかったか。利休と秀吉の確執、そして利休の死に至る導火線ともいうべき一因が、この「横雲文」に潜んでいる。
(文学博士・古筆学研究所所長/小松茂美 本品解説書より抜粋)

【読みくだし文】
此の壺預け申し候。我々が判にて御座(ござ)無く候わば、自然取りに参り候とも御渡しなさる間敷(まじく)候。一日(ひとひ)の壺、三つの其の分にて御座候。以上。
二月五日     利休(花押)
横雲の霞渡れる紫の 踏み轟(とどろ)かす天の橋立
聚光院(じゅこういん)様 玉床下
【訳文】
 「この壺(橋立の壺)をお預け申します。私(利休)みずからの判(花押)を加えた書状なしには、誰が取りに参ろうとも、お渡しにならないでください。先日お預けした茶壺三つも同様にお願いいたします。以上。二月五日。利休。」
 付された一首は百人一首の古歌を踏み、「紫の」は京都・紫野にある大徳寺をさす。「橋立の茶壺を取りにくる者があったならば、足音高く橋を踏み鳴らして、利休に告げてほしい」という思いをこめて詠んだものとされる。
 この書状の題名は冒頭の「よこ雲の……」からとられたものである。

【最高峰の印刷技術と選び抜かれた表装で仕立てた、美術品としても最高級の一品】
 本書状は、気品あふれる流麗な筆づかいの中に様々な人間模様を秘めた逸品として、また、風雅な自作歌入りの文(ふみ)として、古来、珍重されてきた。その「わび」「さび」の境地を見事に表現した第一級の美術遺産「横雲文」を、茶道関係のコレクションで名高い五島美術館の全面協力のもと完全再現。豪華な軸装仕立てで制作した。印刷は高級美術印刷に最適な高精細オフセットを使用。実物のもつ品格と優美な書風を忠実に再現している。また、用紙・表装とも望みうる最高級品を選りすぐり、手作りで丹念に仕立てあげた。他にはない精緻な特装版で、利休の神髄を堪能いただける。

【千利休 1522~1591年】
 茶道の大成者として孤高の生涯をおくった茶聖・千利休は、大永2年(1522)、大阪・堺に生まれる。姓は田中、名は与四郎。茶の湯を好み北向道陳や武野紹鴎に師事し、19歳の時、大徳寺に参禅、「宗易」と称した。永禄11年(1568)、織田信長が上洛した頃より信長の茶頭(茶事をつかさどるかしら)をつとめる。天正10年(1582)の〈本能寺の変〉の後には、豊臣秀吉に仕えるようになるが、当初から秀吉に対する言動には、茶頭の立場を越えるものがあったともいわれている。
 秀吉が関白になった記念の茶会で、初めて「利休」の名で出席し秀吉を後見、以後この号を用いるようになり、秀吉の開く茶会で中心的存在として活躍する。秀吉に強い影響を与えたとされるが、天正19年(1591)2月13日、秀吉により堺に閉門され、28日京都自邸にて切腹。享年70歳。
【軸装】約縦112.0×横40.7cm。表装は風袋つき三段表装。軸先は黒塗紫壇軸。桐柾目印籠蓋・タトウ箱入り。画寸は縦27.1×横38.5cm。技法、高精細オフセット多色刷り。用紙は本紙/越前手漉き鳥の子和紙、裏打紙/時代付手漉き宇田紙。所蔵 五島美術館。解説書つき。日本製。

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